昭和40年04月26日 朝の御理解
昨夜、秋永先生たちが見えまして、今朝方のちょうど3時までで御座いました。「あのう」今度の実行委員のそれぞれの役割というか、持ち場、立場というものを、もっと、本当に、実際的なもの、もっと実際的なものにするために、また新しくでけております。ちょうど3時でしたね、でけあがあったのが、そのことを神様にお届けさしてもらいよりましたら、「あのう」、かしわのがめ煮を頂くんですよね。
「まぁ」がめ煮といやあ大体どこでも使う野菜というなら、おんなじ様なもの人参とか、ごんぼとか、芋とかレンコンとか、と言った様なものが一緒に、カシワのあっ出汁ででけておる、その上から生姜の千切りに切った様なものをこう入れてある。もうひとつ、私は、いよいよお互いがありがとう成らして頂かなきゃならないと、それは、芋の性格の人もあろう、蓮根の性格の人もあろう、ごぼうの性格、人参の性格、様々な「あー」、性格の人が居ろうが、その性格の人達がそれぞれの、持ち味というものをを生かして行くということだと思うのです。「ねっ」
しかも、カシワの味出汁であるということは、いよいよこの、私は有難うならしてもらうことだと思うんですね。たとえば、「あのう」、カシワのお知らせを、いつも鶏のお知らせですとねっ、お知らせは、おかげというものは、向こうにあるようにみんなが思っておるんだと、幸せは、海の向こうの彼方にあるように思っておる思いを捨てて、もう、幸せというものは、自分の足元にあるものだと、鶏が、綱でくくられて、あそこに、繋いであるといたしましょう。
それでそのう、綱を切って、向うの方に行こうとする。向うの方に餌があろうと思う。それはまあ、その人情でもございましょう。幸せかどうか、ほかのほうへ、自分たちよりかもっと、他のところに、あるように思うんだけれども、実際は自分の足元にある、足元はこうやって、たとえば人間が、鶏を繋ぐときに、必ず、やっぱり餌のあるようなところにしか、繋ぎはせん。
「まぁ」そ、足元を一生懸、あせってみると、やは、結構そのうっ餌になるものがあるということ、自分の足元をもっともっと深く広く自分の足元を、本気で探らして頂きますときに、そこに餌があると。喜びというのは自分の足元にある。そういう私は味わいを、つけていくんだと、こう思うんです。いよいよ有難うならしてもろうて、より有難いという、いわば味わいを出していくそしてお互いが、自分の持ち場というものというか、自分の力量というか。ね。
牛蒡とか、蓮根とか、人参とか、お芋とか、ね、そういうその持ち味を、いよいよそのカシワの味わいで、味をつけて、ひとつのあのカシワのがめ煮と言った様なものが、うま煮とも申しますねっ。がめ煮が出来上がっていくと、なんというてもひとつ、愈々有難いという味を付けていく、愈々有難い私にならして頂きたい、信心はまずとにかくおかげ頂きたい、おかげ頂きたいという前にまず有難くならして頂く為の、おかげを頂いて、その有難いという心におかげをうけてその受けたおかげが、今度のご造営と言った様なことの形の上に、現れてこなければならない。
その上にこういわゆる生姜の、人参だの刻んで振掛けてある所が、ちょっと良いんじゃないですかこれはこの度はですね、やはり少しは生姜とか、少し小さいがとま頂いてと、少しは我を張らなきゃいけんと、言う様な事じゃないでしょうか。少しはもう神ながら神ながらしんではいけないと言う事じゃないでしょうかね。少しは自分がこらあ、恩だけれどもという頑張りを掛けて行かなければ、いけんのじゃないでしょうかね。
自分が有難いという、有難いとまず有難くならせて頂くことのために焦点を置く、その有難いという心におかげを受ける。そのおかげのことは、それぞれに違うのです。例えば総代さんなら総代さんたちの、5人なら5人の方たちの性格を見てもちがう、高芝さんの信心をまあ蓮根と致しましょうか、久富繁雄さんの信心をまあお芋のようなと、こう思いしましょうか。永瀬さん当りの信心を牛蒡なら牛蒡と致しましょうか。
秋山吉太さんなら、秋山吉太さん貴方の信心はです。人参なら人参と致しましょうか。杉さんなら杉さんの信心を、ま蒟蒻なら蒟蒻という、信心に致しましょうか。もうあんやっばかりは、蒟蒻のごたるやつじゃあるち、例えばほんならもうあれ、お互いにそう言う様な事は、蒟蒻なら蒟蒻であり、芋なら芋であり、人参は人参、蓮根は蓮根でですたい。牛蒡は牛蒡でその持ち味を愈々、生かして行くのがいわば、かしわであると、その私は有難いという味わいをです、お互い出し合って、銘々の持っている味、以外の味を出してゆく、その有難いという。ね。
こげんこげんつこうて頂いて有難しと、また今ニワトリにするじゃないですけど、おかげというものは、向こうにあるものじゃない、おかげというものは自分の足元にあるのだと、その足元にあるおかげを本気で、あせらせて頂いて本気で自分の足元の餌を頂いて、見事な卵を例えば産ましていく時に、その鶏が人間から大事にされるように、私共はそういう喜びの卵を産まして行く時にです、私共は人間氏子というのは、神様から大事にされるようになっている。
どうでしょう、まあ鶏が卵を生まんごつなったら、もうこんやつは油ん廻っとるというて、(笑い)言われる様なもんじゃないでしょうか、ね、お互いにその信心に、そういうお互いの個性を愈々、鶏の信心で味を付けて、そしてお互いの持ち味を出し合って。牛蒡だけでもでけん人間だけでも出けんと、みなの味わいというものを味を、出し合うていく、そして今度の場合なんかは、ね、
少しは自分達の身に過ぎたもの、そこである意味合いでは、生姜を張っていかなきゃならん、ね、ちったそれは頑張り過ぎじゃないだろうか、言った様な、生姜をまた少しは必要であると、言った様なところをですね。この新しい役作りというですか、その役決めの「あのう」あれをみますと、なかなかその適材適所のところにその役が持っていってあるようで御座います。
お互いあれをもう一遍見直させて頂いて、自分はこういう御用を持って、こういう役をもっておかげ頂いていかねばならんと、お互いのもう全身の全霊を、この事に掛けて行く、この事に打ち込んで行くそこから私共が、あの事やらこの事やら様々願わねばならん事を、おかげ受けなければならん事は御座いますけれども、神様のごきかんに適うという事、神様の悲願に応えていくという事、その信心に焦点を置いていけば、その事はおかげになると言う様な気がするんです。
今朝3時半でした、もうそれこそ本当に朝一生懸命でした。明日はよう古賀先生にまあ清書してもらって、まあ一遍書き出してもらうと、そのためにはもう先生が誰からも聞きんされんでよかごと、もう実に小さい説明までいれてから、あそこにして御座います。それからもう一つでしたけども、皆さんがこうやって、ほんに一生懸命な方達を一生懸命あすけ、10人、14,5人の方達はもう本当にまあゆうなら、不眠不休でそのことにあたっておられます。
これはもうほんと、まあこれから半年も掛って「まあ」ほんにそれこそ倒れらっしゃらせんじゃろかと私は思うから、あの花がですねなにかね、綺麗な花ですけれど、咲いてる花がある、まだつぼみのものがある、まだ固いつぼみのものがあるといって、こうまた次々に咲いていくと。追いつかれてますから、神様のその計画というものがですね、もうこれが疲れたらこれを、これが疲れたらあれをというふうにですね、神様ご休息がありよるですね、そう言う様な例えば感じをうけました。
どうぞひとつこのことが、本当に成就する事のために、まず外壁だけで成就するのではない、私共は有難き勿体なきが、その事の成就という事になる。最後にあの北京に天断というとこ名称が御座います。北京に天断の写真を頂くんです。この写真は何の事だか分かりませんでしたけれどもです。これはもうほんとにあれは昔の皇帝が、何か天の拝しらんのためにでけた、その回廊だといわれています。ね、もうほんとに、「あのう」、総祈念その事のための、総祈念がなされるくらいな、ひとつ気持ちがいるのじゃないかと言った様な事も、一緒にまあ感じたので御座います。
おかげ頂きました。